貧富の差、肌の色の違い、差別という言葉。それらはどこからやってきたものなのだろう。昔、奴隷として世界の至る所に連れて行かれた彼ら。そして今現在、まだなぜ足枷が外されないままなのか。
この足枷のホントの正体って何なんだろう。「自由の国」アメリカ。自由の反対語は、束縛。束縛のない世界を求めて、人はここにやってくる。
街の中心部であるタイムズスクエアに立つと、隙間を埋めていくかのように道に詰めかけてくる人、人、人。それでも一定のルールに沿って人は歩道にまとまり、車は車道にまとまる。自由が自由として在るためには、ルールが必要となってくる。
だけどそのルールが時として束縛を作り出す。ルールは常識とも呼ばれ、固定観念として擦り付けられている。「差別する側」「差別される側」という観念が、ここでは「右側通行」「左側通行」というルールと同じ響きにさえも聞こえてくる。
そして次の日。真昼のニューヨーク、出航の時。ひたすら眠ってだいぶ熱も引いた私は、マンハッタンの超高層ビル群を船のデッキから一望していた。
どこまでも天に向かって伸びていくそのビルの姿は、私たちはここに有るという堂々とした叫びのようであり、重苦しい地上から離れて天に昇っていきたいような、どこか救いを求めて上に伸びる姿にも見える。
ギュッと詰まりすぎる空間では呼吸をするのも忘れがちだ。この街では自分らしくあることを貫ける人のみが、深呼吸をしている。
ふと、ブロードウェイの舞台に立つ彼女たちの顔が頭をかすめた。光と影、ニューヨークはその濃淡の深さを露わにしている。ここは、自分らしくあるということを選択でき得る場所だとも言えるし、またそうでないとも言える。
だけど「血」よりも強い、今を生きる自身としての「アイデンティティー」を強く打ち出し認められた時には、ニューヨークがニューヨークとして愛される所以がきっと実感できるんだろう。だからこそ人々はここへと大きな野望を持って、その輝いたいのちを連れてやって来るんだ。