夕方になってくると提灯も灯り出し、辺りの雰囲気がグッと変わる。さっきまでとはまるで違う空間かのように空気が急に深みを増してきた。そうして人混みに紛れて歩いているうちに私の頭の中に、突如モクモクとリアルな妄想が湧いてきたんだ。
古い街並みの路地の奥から、濃厚な空気がドロッとでてきて私の体の周りを取り囲み始める。重苦しいその空気は、どこか懐かしさと少しの寂しさのようなものを含んでいる。街のざわめきはいつしか遠くフェイドアウトしていって、古ぼったい音楽が階段の下からかすかに聞こえてくる。
そこに行ってはいけないと思っているのに、何故か足はひとりでに階下へと重く引かれるように進んでいく。薄暗くなっていく階段の向こうにポツンと、小さな出口が見えた。その出口から出てしまったらもう、ここへは戻れない。二度とこの世界には。それが分かっていても足は勝手にその出口へと進んでいく…
一歩、また一歩。帰りたいの?それとも、帰りたくないの?そんな問いかけが私の頭の中でループしている。私はどこにいるんだろう。そして、一体どこに帰りたいんだろう。目の前にあるこの世界はホントに本物なんだろうか。そして私はいま、生きているんだろうか。
際限ない疑問が頭の中でグルグルと回転している。最後の一歩を踏み込もうとした瞬間に、パン!と白い光が全身にぶつかってきて、私はその小さな出口とも入り口ともいえない場所の前に立っていた。そんな例の映画の中にいるかのような妄想をしている間に、私は九份の街の長い階段を最後まで降りきってしまっていたのだ。
そうだこの感覚…ずっと忘れていたよ。昔よく感じていた時期があるんだよね、私の住む神戸の街で、大きな大きな震災があった後にさ。明け方の闇、真っ赤な炎が照らす崩れ果てた街。そんな中で私たちは運良く生き残った。だけどその時、私のいのちは一度終わった…そんな気がしたんだよね。その感覚はその後も何ヶ月か続いていた。私は生きてるの、死んでるの?この世界は一体どちら側の世界なんだろうって。長い間、そんな疑問をぼんやりと抱き続けたまま生きていたんだ。
だけどよく分からないままにも「生きているならいのちを最大限に輝かせる」と、私はそう決心した。そしてそれを実践してきたつもりだった。私の、心のままにある世界がいつも目の前にあるんだって。そして今、この世とあの世の境目が曖昧なような非現実的空間の九份だからこそリンクしたんだ、忘れていたあの頃と。曖昧な隙間から繋がる世界は一瞬私をどこか遠くの場所に連れて行って、再びこの世界にリセットしてくれた。
そうだった。思い出したよ…大事なことをさ。
「ここは、私が選んだ世界なんだ。」
「ここは、私が選んだ世界なんだ。」
階段の出口を抜け、九份の雑踏から離れてバス停に向かう。陽が暮れつつある台湾の山奥は、あちら側の世界の気配を辺りに滲ませている。道の向こうからバスがゆっくりとやってきた。バスのステップを上がり、たくさんの人で混み合う席の隙間に立つ。さて、私はこれからどこに向かっていこうか。