平和だから、観光ができる。情勢が悪化したらすぐにその場所は観光から外されるよね。観光産業がもっと各国の重要な資金源になってくると、内戦とか戦いを放棄したいような風潮も出てきたりするのかな…まあ、これはかなり楽観的な考えかも知れないけどね。
観光開発から来る環境破壊なんかも含めると、観光は素晴らしいと両手放しに言えるものでもない。だけどこれからの世界のあり方に、大きなチャンスを与えるのが観光なんじゃあないかって思うんだ。そんな風に思っていた最中、私と友人はちょっと不思議な観光に誘われることに…。
音楽学校のみんなと交流した後、私たちはモザンビークの街へと繰り出してみた。雑然とした広場は人で溢れている。「ガイドをしてあげるよ」不意に現れた、ひょろりと背の高い男の人が私たちの隣を一緒に歩き出したんだ。笑顔の爽やかな青年だったけど、ガイドってもちろんボランティアではないよね。「持ち合わせも少ないし、私たちは自由にあちこち行きたいからガイドはいいよ」って断っても、いいからいいからってついてくる。「じゃあ幾らなの?」って聞いてもとにかくいいからの一点張り。
歩きの個人ガイドさんは初めてでさ。値段を言わないのが奇妙だし、どこに行くなどの交渉の余地を見せない上に、断ってもひたすらついてくるのにはホントに困った。だけどこれ、どうやらモザンビークでは定番のスタイルらしく、あちこちでそんな風景が繰り広げられてたんだ。途中で友人が諦めて「もういいんじゃない、一緒に歩けば」って言うもんだから、断るのもいいかげん疲れたし、もういっかってなって一緒に歩き始めた。
そのガイドさんが説明もないままに連れて行ってくれた中で、大砲が展示されている戦争の名残のような場所があった。モザンビークで内戦が終わったのが1992年、それほど昔でもない。
大砲の置いてある空間と、その向こうに立つ高層ビルとのコントラストには不思議な時空の歪みのようなものを感じざるを得ない。「僕のお父さんも、この内戦で亡くなりました」ガイドの青年がポツリとつぶやく。大砲をカメラに収めていた私の手が止まる。戦争が残すのは、悲しい記憶とすさんだ現実だけだ。
その砲弾が外に向けられた壁の穴から下を覗くと、道に沿って古ぼったい感じの市場のようなものが並んで見えた。魚の艶めかしい銀色の姿が台の上に打ち上げられたかのように置かれている。悲しい過去を目の前にしながら、それでも人は生活を続けていく。微笑みの下に見え隠れする少し鋭い目つきの訳は、きっと彼らの背負った過去以外のなにものでもないのだろう。