お金を否定する訳ではないし、それが特別に悪いとも言えない。有効的に使うことももちろんできるしね。だけどそのお金を得るためにもし、本来持ち合わせた生き方を学べる環境を手放すという方法を選ぶとしたら、それは本末転倒なことなのかもしれない。
きっと要は、何に元づいて生きていくかってことなんだろうね。つまり個人の「アイデンティティー」なんじゃないかって思う。
「私」が「私」であるという証のようなもの…恵まれている人は、深く根ざすアイデンティティーを持っている。だけど一方で私も含めてだけど、生きるって何だろうって疑問に思ってる人もいっぱいいる。
映画で描かれていたワンシーン。学校に行くために家族から遠く切り離されてしまい、山暮らしの生き方を学ばないまま、学校という箱の中で知識だけを知った。もちろん社会に出てそれらを役立てていく者もいれば、就職できずに習った知識も役には立たず、山に戻っても農作業のやり方も分からないまま何もできない者も…そんな現実がある。
それと対照的だったのが、「火の山のマリア」というグアテマラ映画。先住民族であるマヤ族の抱える問題が浮き彫りにされているものだった。今では迷信的とさえされる祈祷師の術や信仰を保ったままに、自然を畏怖し生かされ、大地と一体になって必要なだけの恵みを受ける。
彼らは大地や動物たちとの生命のやり取りを心得ている。火山の元に生を与えたれた人々が慎ましく農耕を続けていくかたわら、害獣や作物の病気などを静かに受け入れ、その場所が変化していくままの形に沿って生きながらえていく姿があった。
そんな僻地にも現代的な流れがやってきては汚染していく。家族の深く力強い愛情で支え合いながら困難を乗り越えていく彼ら。スペイン語が話せないことによって通じ合えない現状や騙しに直面し、それに気づくこともなく運命の道をひたすら進んでいく…こういった内容は、世界各国の先住民族の暮らしなどにも当てはまるようなことだ。