マジュロに流れる時間はマジュロタイムと呼んでもいいくらい、そこには独特な気配と伸びのようなものがあった。それは少しけだるいような雰囲気でもあり、朝、目が覚めて少しまどろんでいる時の、まだ夢の中のようでいてそこにとどまっているような感じにも近い。そこには青い空、青い海、平和を絵に描いたような世界が広がっている。そう、まるでここで何も起きなかったかのように。
マーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験が行われたこと、それは過去の出来事として記憶の彼方に葬られてしまったのだろうか。こんな楽園のような場所にそんな過去があったということ、それ自体を知っている人も少なくなっているのかもしれない。世界には、表面的に見ただけでは知り得ない色んな悲しい出来事がある。
だけど同時に、どこに行っても感じる希望もある。それは「子どもたちがいる」ということ。色んな過去があるのと同時にある、希望としての存在が「子どもたち」だ。単純に言うとそれは「未来」とも言える。未来がどうなっていくかは、子どもたちのこれからの選択次第。だからこそ今、私たちがどう生きるかは重要だよね。だって子どもたちは大人の後ろ姿をしっかりと見ているのだから。
世界をたくさん見るということは、比較ができるということ。ただ比べて、良い悪いを言う必要があるということではなくて。どんなことでも特徴があるから、それを見るんだ。
世界の欠片をたくさん集めてテーブルに一度に並べると全体が見える。そうすると、自分だけの「世界」がそこに現れてくるだろう。こうやって写真と文章を並べてみるだけでも、それは簡単にできる。教科書に書いている世界ではなく「私」のリアル世界。
それを知ることは、これから自分がどう生きていくかの選択肢にもなると思うんだ。もちろん、悩んだり迷ったりするかも知れない。ひたすら大きな世界に圧倒されて、言葉も出ないかもしれない。だけど自分という存在を知るには、広い視野から客観的に見ると案外分かりやすいものなんじゃあないかって、そう思うよ。